病気について

病はいろんな事を教えてくれている。

仏教が説く現世の苦しみに、生、老、病、死がある。
人間の存在そのものの四つの苦しみに、愛別離苦(あいべつりく)」愛する人や大切なものと別れなければならない苦しみ、「怨憎会苦(あいぞうえく)」会いたくない者に会わなければならない苦しみ、「求不得苦(ぐふとくく)」求めても手に入らない苦しみ、「五蘊盛苦(ごんじょうく)人間が心身の活動をしていることが自体が苦しみ」を加えたものを四苦八苦という言葉で表されています。

 

ここではその四苦八苦の中の「病」について考えて見たいと思います。

何故、人は病気になるのだろうか?

気の病(やまい)と書くように、人体の損傷での病気ばかりに目がいくけれど、70%位は心の方の問題が結果的に、人体の損傷にも繋がっているのではないかと考えています。
ひょっとするとこのパーセンテージは、もっと高いのかもしれません。

 

けれど本来、病気は今の自分の生活の間違いを教えてくれるものと考えて見るべきで、それを素直に受け止め、改める事が出来るかどうかが大切な所。

自分のものの考え方、生活のパターンを変えるのは、長く生きてきた経験や強烈な何かの影響を受けていると、思っているよりも難しい現実なのかもしれません。


普段、健康なときや若いときは、体のことをほとんど考えないで生活している。
そしてたまに風邪などで寝込んだときに、健康のありがたみがわかるというのがひとつのパターン。

長く生きるという事は、そういう事を考えないで、その歪みが蓄積されたモノが老化を早めている原因と言えるのではないだろうか。

 

 

管理人が考える人間の本体とは…
気の固まりやエネルギー体、霊体とかいろいろ言われている物があり、それが有機的なスーパーマシンの人体と重なり合って動いているのが人間だと考えている。

 

故に両親からもらった人体の脳(これはあくまで人体の生命維持装置の為の物と考えている)と本来の自分とのギャップがあり、人体の脳の方に引きずられると結構、苦労をすることに繋がるのではないかと考えています。

 

心は何処に?と聞かれると胸に手をするのは、脳ではなく、体全体の中心を示していると考えています。

ゆえに座禅と言わずとも、静かに座って瞑想するような時間を取れる人は、本来の自分に気づくチャンスがあるのではないかと考えている。

 

そして本当はこうなのではないかと考えている事を、小説「人生ゲーム」で現在、書いているので暇な時間があれば、退屈しのぎに読んでみて下さい。

管理人が子供の頃、母親は病で入院しているか家で寝ているかの生活をしていた。
この時に、薬は基本的には「毒」であると感じた。
いま思えば可哀想な人生だったと思う。


それでも、そんな中でも人は生きてゆかねばならない、与えられた条件の中で。

 

物事には何事も終わりがある。
人生の場合はその終わり方が、穏やかなものでありたいと思う人も多いと思うが、いろんな人の死を見てきて、やはり物事の考え方、普段の生活のありかたが大切と痛感する。

 

人は急には変われないし、本当に未来は解らない。

 

ある程度、回復する病気とそうでない病気を、今現在かかえている人。
共に考える時間がある事を大切にして欲しいと思う。

直葬・天国への引越